もじばやしの日常観察

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#1 「エッセイを書く人」になりました。

「出る杭は打たれる」っていう言葉あるじゃないですか。目立つと潰される、みたいな意味だと思うんですけど、残酷な言葉だなぁって思っていたんですよね。

今日はそんなお話です。

 

 

発信力は敵なのか?

これは私の長所*1であり、悩み所でもあるんですが、「発信力に長けている」んですよ。自分が楽しいことを経験すれば、すごく楽しかったといわんばかりのツイート・投稿・表情をするし、嫌だなぁ辛いなぁという経験も、その通りの発信をしてしまう。良くも悪くもストッパーがないんでしょうね、恐らく。

あと、4投稿目にして何度目の言及かというほどですが、「気に入ったことは自分でもやってみたくなる」んですよね。先日のYouTubeの謎ラジオも、このブログもそう。コロナ禍で殊更人に会う機会が無くなり、自分が考えていることを発信する機会が激減した、というのもブログ開設の密かな*2動機です。

 

という訳で、好きなように発信をするわけです。ただ、その際に必ず「自分を何者かのように仕立て上げることは、良いことなのか?*3」っていう悩みが付き纏うんです。

例えば私はブログをやっているから「ブロガー」と名乗ってもいいし、こうやってエッセイを書いているから「エッセイスト」と名乗ってもいいし、YouTubeに動画投稿もしてるから「YouTuber」と名乗ってもいいし、時々ピアノを弾くから「ピアニスト」と名乗ってもいいし、……とか。そうやって「型にはめて定義付けをして、自らを何らかに自称して相手に差し出すこと」、超ハードル高いなって思うわけですよ*4

こうやって悩む機会が増えると、根源まで立ち返って自分の発信力を憎むことが稀にあります。そうして荒んだ気持ちになると「自分の発信力が敵だ」とか思ったりするわけなんです。

 

自称する勇気

そんなある時、「キョコロヒー*5」を見ていました。せっかくなのでTVerのリンクを貼っておきます。クセになるので、ぜひ。

 

tver.jp

 

この番組のとあるコーナーで「コンテンポラリーダンサー」と名乗る人が現れました。松本ユキ子さん(松本 ユキ子 (@yukiko_mtmt) | Twitter)という方で、ちょっと奇妙だけど視線を釘付けにさせる何かがある、そんな振付のダンスを見ました。

ここで私の浅学故に知らなかったことなのですが、どうも「コンテンポラリーダンス」というジャンルがあるらしい。ということは、この人はあくまでそれに従って粛々と名乗っているだけなのかもしれない。かもしれないんですが。でもなんだか勇気をもらった気がしました。

というのも、やはり「人間は言い切ってくれると安心する*6」、というある意味当たり前の事実に気付けたからです。「コンテンポラリーダンサーです」と言われると、「あ、この人はコンテンポラリーダンサーなんだ」という風に、一旦スッと納得するんですよね。その言葉の意味するところは確かに後から考えるとしても、一旦呑み込める。この「一旦呑み込む」というのが、言い切りの魔力だなと感じたわけでした。

 

推しの考えるエッセイと、エッセイストの考えるエッセイ論

はたまたある時、推し*7のエッセイ(コラムかもしれませんが)が掲載された雑誌を読んでいました。せっかくなのでこれもリンクを貼りますね。

 

www.fujisan.co.jp

 

どうやら推しもエッセイが好きらしく、こんな一説がありました。折角なので引用をば。使ってみたかったんですよ、引用機能。

エッセイとは人から貼られたレッテルをはぎとり、心を直接覗かせてもらうものなのではないだろうか。(中略)エッセイを読むときのこの甘美な快感は、他者の心を覗く罪悪感からきているのかもしれない。

小説現代 2021年5・6月合併号」宮田愛萌『読書中毒日記Vol.14』(pp.244-247)より

ははーん、エッセイってそういうものなのか。という感触がありました。確かに「エッセイ 書き方」とかでググっても、基本的には①事実に即して、②自分のことを書きましょう、という御触書を随所で見ました*8。推しもそう言うなら、エッセイとはなるほどそういうものか。そんな気持ちになりました。

 

さらにこの雑誌、さすが「小説現代」というタイトルにふさわしくエッセイストのエッセイも連載されています。その中で、酒井順子さんの言葉も沁みました。

八〇年代は軽い時代であったからこそ、エッセイであれ短歌であれ口語的なわかりやすい言葉をもって書かれるようになったのだ、と言うこともできます。しかし同時に、好景気と平和とに恵まれた八〇年代は、若者が自分を表現するときに特別な理由が不要になった時代と言うこともできましょう。動機から自分を表現せざるを得ないと言うよりも、何とはなしの不安から、もしくは理由は不要となり、レジャーの一環として心情を文章化する動きが広がったのです。

小説現代 2021年5・6月合併号」酒井順子『~日本エッセイ小史~人はなぜエッセイを書くのか 第九回 詩とエッセイ』(pp.180-185)より

あぁ、自分を表現するのに特別な動機は要らないのか。なるほど。いやまぁこれは80年代の話なのですが*9、私は80・90年代のJ-POPが好きな人なので*10それも良しとしましょう。私の心象風景に80年代が混ざるなら、表現に80年代のマインドが混ざったっていいじゃないか。

 

更に、別の一節では「エッセイのように見えなくてもエッセイと言い張ることもできる」と、プロのエッセイストが言っているのも私を後押ししました。このあたりは原文を引用しませんが、流石エッセイストという言葉の感性を感じる響きが幾つもあったので、表現を独り占めします。気になる人は書店で買ってください。上にリンクも貼ったからね!

 

たぶん私も。

とまぁ、最近の心の移り変わりをつらつらと書いてみました。2000字くらいで終わらせるつもりが3000字ほどになってしまいました*11

でも、これなら私がエッセイを書いてもいいなぁ、と、そんな気がしたので、折角だし胸を張って「エッセイを書きます」と言っていこうと思います。エッセイスト。

出る杭が打たれるといっても、出てみないと打たれるか分からんじゃんね。そもそも私が杭とも限らん。大樹かもしれないもんね。

 

 

……いや、エッセイストという響きはまだ荷が重いので、「エッセイを書く人」くらいで留めておきます。もうちょっと文才が身に付いたら、エッセイストを自称しよう。

ではでは!もじばやしでした。またいずれ。

 

 

*1:たぶん。

*2:昨今の「密」の流行りぶりは、きっと前島密も驚きでしょう。

*3:この背後には、「自分は大した人間ではない」という自己評価があるのですが…まぁそれはそれ。

*4:自称することのハードルが高いからこそプロがプロとして活動できる、という考え方もありますが。

*5:ヒコロヒーさんと齊藤京子さんのダンスバラエティ番組らしいです。そんなカテゴライズあるのか。

*6:就活でも、言い切り型の発言で自信を演出すると、採用側も信用しやすい。みたいな話を聞いたこともありました。やっぱり人to人の何かがあるのかもしれませんね。

*7:日向坂46の宮田愛萌さん、という方です。

*8:実は前々からググって準備していました。こういう所に生来の申し訳程度の真面目さが出てる、のかもしれない。

*9:なんなら2021年は目下コロナと五輪とワクチンで国論が大分断、好景気とも平和とも言い難いですが。

*10:サザンオールスターズ槇原敬之、とか。有名どころだけどね。

*11:考えながら書いたら2時間くらい経ってました。次回からは1500字程度を目安にしたい。読む側の労力を考えても。